鏡物弐式

金椎響による電子記録

『屍者の帝国』を視聴しました

f:id:HibikiKANASHII:20151117005111j:plain

●牧原亮太郎『屍者の帝国』(2015年)視聴しました

 

 2015年11月13日(金)から公開予定だった『虐殺器官』が製作会社の事情で放送が中止となり、かわりになかむらたかしマイケル・アリアス『ハーモニー』(2015年)が繰り上げ公開されていますが、牧原亮太郎『屍者の帝国』(2015年)を視聴しましたので、以下その感想をつづっていきたいと思います。

 ちなみに、先にTwitterで呟いた内容を整理しただけなので、真面目な考察などはありませんのであしからず。

 

<あらすじ>
 時は19世紀末、ヴィクター・フランケンシュタインがもたらした「屍者技術」によって、死者が「屍者」となって蘇り、日常を支える労働力として用いられる世界。1878年ロンドン大学の医学生ジョン・ワトソンは、亡き学友のフライデーの墓を暴き、違法の解析を行い、疑似霊素をインストールしたところを謎の男たちにおさえられてしまう。
 男は自らを「M」と名乗り、大英帝国が有する諜報機関「ウォルシンガム機関」を指揮していた。「M」はワトソンの所業を見逃すかわりに、諜報活動に従事するよう命じられる。
「アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ
 ロシアの屍者研究を率いながらも、祖国を裏切り、アフガニスタンに「屍者の王国」を築いたと噂される、ロシア人を追って、ワトソンはフライデーとともにアフガニスタンに赴くことになる。
 そして、それこそがフライデーを取り戻す禁忌の術を探る、出発点だった。

 

<率直な感想>
 わたしの見た限り、計劃ファンのなかでは賛否両論といった感じです。
 ただ、個人的には伊藤計劃円城塔の原作の内容を劇場アニメにする以上、取捨選択と優先順位をつけることは避けられないわけで、それを思えば牧原監督をはじめとする制作陣は健闘したと評してもいいのではないでしょうか。
 原作至上主義を唱えるのは非常に簡単なのですが、『屍者の帝国』だけで三部作制作するわけにはいかないわけですし、投入できる人材・資源・資本にも限りがある以上、泣く泣く切り捨てる描写や登場人物が出てきてもしかたがないと思います。
 ちなみに、わたしは一度目は事前に前売り券を購入して視聴、二度目は劇場公開終了日に観に行きました。二度目の観賞の際は、若い世代の姿が多かったものの老若男女、様々な人たちで賑わっていたのが非常に印象的でした。

 

●ワトソンとフライデーの関係が原作版とは異なり、親友同士になったことでより感情移入ができました。「ただ、もう一度聞きたかった。きみの言葉を」の台詞には心が揺さぶられました。
●セワード教授とヴァン・ヘルシング、バトラー、リットン提督、天皇大村益次郎などなどが軒並み未登場。仕方ないね。
●原作版では解説してくれるクラソートキンが劇場版では新型屍者に(震) クラソートキンはイメージ通りのキャラクターで気に入っていただけに衝撃的でした。
●原作版ではカラマーゾフから結晶体を託されますが、劇場版では手記の破棄という約束を迫ります。
●ワトソンとバーナビーの関係がかなり熱く感じました。アメリカ・プロヴィデンスで屍者との市街戦の後、ハダリーのセーフハウスでバーナビーが殴り、ワトソンが赦しを乞うシーンが非常に印象的でした。
●原作でのバーナビーの名言(?)「下着ではないから恥ずかしくない」(167頁)がちゃんと劇場版でも再現されていました。
●原作版では特に好きでも嫌いでもなかった山澤静吾氏が愛おしいです。勇ましい姿もいいですけど、呆けた表情もなんだか愛嬌があって。戦闘シーンのなかでは大里化学戦が特に気に入っています。敵として登場する二刀流の武者の新型屍者たちもかっこよかった。
ハダリーが期待通りの美しさと可憐さでした。個人的には、船で渡米中の看病のシーンが映像的に好きです。
トーマス・エジソンが作ったノーチラス号。操舵はハダリー。
ヘルシングが未登場なので、ラスボスは「M」となり、その動機は戦争の抑止と人類の「救済」――と評する全生命の屍者化に変化しています。もっとも、屍者化と人間の意思は菌株がなんとかかんとかという話はあんまり好きではなかったので、わたしはさほど気にならず。
●と、思いきや……真のラスボスはやっぱりザ・ワンでした。かつてヴィクターに創造を拒否された花嫁にハダリーを、そして自らはフライデーの身体を使って野望の成就を図ります。
●原作版ではザ・ワンは花嫁とともに行方知れずになりますが、劇場版ではワトソンが傷付きながらも立ちはだかり、最後はフライデー(?)とともに打ち倒します。ここの場面は原作版にはない熱量を感じて、なんだか呆然としてしまいました。
●原作版ではハダリーと再会し、ワトソンは自身に「屍者の言葉」を吹き込んでしまいますが、劇場版では最終戦で密かに回収していた手記を「自らの頭に封印」します。新型屍者の疑似霊素とヴィクターの手記では効果が異なるのか、ワトソンは「異なる地平に旅立ってしまう」とフライデーが語るものの、ホームズと普通に話している限り、屍者でも新型屍者でもない存在に見えます。
●原作版と同様、新たな(?)意思に目覚めたフライデー。ただ、ワトソンの以前の意思を探すためではなく、劇場版ではワトソンとホームズという新たなバディの姿を遠くから見守る。

 

 個人的には、原作版の物憂げな終わり方ではなく、「いい加減、屍者にとらわれるのはやめろ」というバーナビーの言葉のとおり、ワトソンはフライデーに執着するのをやめ、ホームズという新たな相棒とともに、屍者技術を探求するのではなくロンドンを駆け巡る、という一歩を踏み出している姿に安堵してしまいました。

 この結末は、わたしにとってある種の救いを感じさせるものでした。

 本当はパンフレットを購入したかったのですが、生憎売り切れ(血涙)
屍者の帝国』上映終了後、一回目にはなかった『ハーモニー』の最新宣伝がありました。『虐殺器官』が放映未定になったから、11月13日に繰り上がり上映なんですよね……。

 

<おまけ>
 そもそも、『屍者の帝国』には様々な論点があり、「劇場版であれ原作版であれ、もしも伊藤計劃が死ぬことなく最後まで書き上げていたら、こういうかたちにはならなかっただろう」という指摘はそんなこと言われるまでもないし、それはみんなわかっているはずで、それを言って批評した気分に浸るのは論外だと思っています。
 いつか、計劃氏を超える人間が現れるだろうけれども、計劃氏のかわりは誰にもつとまらない。
 次に、『屍者の帝国』が娯楽映画に成り下がったという意見は、何も『屍者の帝国』固有の問題なのではなく、程度の差こそあれ現代映画が抱えるより根の深い問題なのであって(採算性や収益を度外視して制作される映画のほうがむしろ異質で例外である)、それをことさらこの場で強調するのはふさわしくない。
 ワトソンとフライデーがほもほもしいという意見は……まぁ、そう言って拒絶したいという心情は理解できなくもない。
 詰め込みすぎてついていけないという意見も、確かに理解できますが個人的には原作版の内容を鑑みれば、むしろよくこれだけ削ぎ落とせたとも思う。これについては最初のほうでも触れたので繰り返しません。